In April 1984, Kaiko sha (the organization of IJA officers) started to publish the compiled records of officers who participated in Nanjing campaign in 1937, after the second battle of Shanghai. I would be happy if you can have an idea of what was going on on the fateful month of December.
Except for the format change to suit the web, the text is the same as the original.
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証言による『南京戦史』
46期 畝本正巳
(会員諸賢に)
「偕行」編集部
いわゆる「南京事件』に関する情報の提供について会員各位から多くのご援助をいただいたことを重ねて厚く御礼申し上げます。
畝本正巳君の研究が逐次編集部に到着する運びになりましたので、今月号から掲載を始めます。
題して「証言による南京戦史」。これは、文字通り、真相を知る参戦者の体験を主軸としてまとめあげた「戦史」であります。参戦部隊の作戦行動の基本は確実な戦史史料に根拠を求め、できる限り部隊の戦闘行動を細かく追うて、この間に「何がおこなわれたのか」を明らかにしようとするものであります。関係部隊の行動の細部を明らかにする公的な史料は、残念ながら充分には存在しません。これを補う途として、従軍者の証言によったわけであります。
畝本君は長期に亘る自身の研究の上に、会員各位はもとより部外の多くの方々からの指摘や資料を得て、ここにこの事件の全容を纏め上げられました。
その研究はまず南京攻略戦の全貌を描き、この作戦・戦闘の特異性ともいうべき事象を明らかにし、ついで何時、何処で、どんな戦闘が行われたか、個々の事象を分析しつつ、組み立て綜合して南京で何が行われたかを明らかにする手法をとっています。
今日、この事件について多くのことが指摘され、非難もされていますが、肝心の日本軍の側から、この事件の全貌を綜合研究したものが皆無であることを考えると、この論稿がこの事件を論ずる資料として、信頼するのに足る戦史書であることを確信し、期待しているわけであります。
この事件は今後も内外でいろいろに論ぜられるものと思いますが、その場合にこの戦史が根拠ある資料として活用されることを祈ってやみません。
われわれの立場は、昨年11月号の「偕行」誌上で明らかにした通り、実際に何が行われたにせよ、当時の従軍者が日々に少なくなる現状において、今にしてその真相を探るのでなくては、ついにその究明の時期を失するのではないか、との考えからであります。
従軍者の証言を基盤とするこの「戦史」は今後もさらに多くの証言を得られることを期待しています。畝本君の研究によって記憶を新たにされた方々の御協力を、この上ともにお願いいたします。(42加登川 記)
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いわゆる南京事件は一昨年、教科書検定に関連して「大虐殺」が行われたとして問題とされた。事件は上海戦につづく、約二百マイルの追撃戦の終末期、首都・南京の攻防の過程において生じたとされる。したがって、南京事件の真相は、南京攻略戦の経過、特にその戦闘の細部の実態を究明することによってのみ、初めて明らかにされる、これがため、防衛研究所戦史部署「支那事変・陸軍作戦(1)」および戦闘参加各師団・聯隊史を踏まえ、当時の参加者の生の証言の為し得る限りを収集比較検討して、果たして南京で何が行われたか、南京入場時の実態を探ってみたい。
一、上海より南京へ
1、追撃作戦の統制
昭和12年8月以来、悪戦苦闘をつづけた上海派遣軍は、11月5日の第十軍(柳川平助中将)の杭州湾上陸および第十六師団の白茆口上陸により戦況は一挙に好転し、11月下旬、蘇州~嘉興の作戦制令線に殺到した。当時、参謀本部内においては、制令線を撤廃して、軍を進むべきや否やが問題となったが、第十軍の「一挙追撃ヲ敢行シテ南京ヲ占領スベキ」積極案にひきずられて、中支那方面軍がこれに追随し、中央部が追認する形をとって作戦は進行していった。そして、11月24日、方面軍は無錫~湖州の線においてその後の作戦準備を命じた。潰走する敵を急追して常州、丹陽、金壇に前進拠点をつくり、主力は無錫~湖州の線以東の地区で、12月上旬までに南京に向かう準備を整えた。第十軍は嘉興~湖州~長興を経て、第百十四師団は一部をもって宜興・漂陽を、第十八師団の追撃隊および国崎支隊は広徳に進出し、軍主力はその後方地区に集結した。
このように軍中央部は、事変処理の政略的要求を重く考えて作戦を統制したが、現地軍とくに最前線の追撃部隊は、徹底的に破壊された橋梁や道路を修復しつつ、昼夜兼行の進撃をつづけたのである。
2、南京攻略作戦の発動
南京攻略を行うか、否かは、政略的配慮があり政府・参謀本部で種々論議されたが、現地軍の再三にわたる意見具申、さらに参謀本部下村定第一部長の熱心な意見具申によりついに「南京攻略」が決定された。そして12月1日、大陸命第七号により中支那方面軍の戦闘序列が下命され、方面軍司令官松井石根大将、上海派遣軍司令官朝香宮鳩彦王中将、第十軍司令官柳川平助中将の陣容をもって、大陸命第八号をもって「海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スル」こととなった。
方面軍は、1日、南京攻略作戦の命令を下達し、隷下両軍を次のように部処した。
一、上海派遣軍は12月5日頃主力ノ行動ヲ開始シテ、重点ヲ丹陽、句容道方面ニ保持シ、当面ノ敵ヲ撃破シテ磨盤山山系西方地区ニ進出スベシ。一部ハ揚子江左岸地区ヨリ敵ノ背後ヲ攻撃スルト共ニ、津浦鉄道及ビ江北大運河ヲ遮断セシムベシ。
二、第十軍は12月3日頃、主力ノ行動ヲ起シ、一部ヲモツテ蕪湖方面ヨリ南京ノ背後ニ進出セシメ、主力ヲ以テ当面ノ敵ヲ撃破シ漂水附近ニ進出スベシ。特ニ杭州方面ニ対シ警戒スベシ。
この命令は、一挙に南京に向かい追撃するのではなく、南京要塞の抵抗、部隊の態勢整理などを考えて、まず磨盤山山系西方ー漂水附近に進出して、南京攻略を準備しようとするものであった。
3、トラウトマン工作
日本政府および軍中央部は、支那事変勃発以来、不拡大・現地解決方針のもとに、日・支両当事国による直接交渉を建前として早期解決の途を模索しつづけた。
しかし、事変が逐次拡大するにともない、石原第一部長~ドイツ大使館付武官オット少将~駐支ドイツ大使トラウトマンのルート、および広田外相~駐日ドイツ大使ディルクセン~トラウトマン駐支大使のルートを通じて、和平交渉を開始した。そして11月6日、ディルクセン大使は日本側の交渉条件を、ドラウトマンを通じて蒋介石に提示した。蒋介石はこれを拒否したが、情勢はなお流動的であった。
その後、蒋介石も期待を寄せていたブリュッセルの九ヶ国条約会議が不調に終わるや、改めてトラウトマン工作に期待を寄せはじめた。12月2日の南京におけるトラウトマン大使との会談においては、和平交渉に真剣で乗り気であったことは明らかである。
しかるに、南京攻略作戦の進展にともない、日本側が要求する和平交渉の条件は次第に変化し12月13日南京が陥落するに及び日本政府の態度は硬化した。一方、漢口に移転した蒋介石は、この屈辱的和平条件を受け入れること能わず、回答を遷延し、翌13年1月14日に至ってディルクセン大使を通じて、「日本側要求の詳細を知りたい」との回答をようやく寄せたのであるが、わが大本営政府連絡会議は、「中国側に和平の誠意なし」として交渉打切りを決定し、16日、かの有名な「国民政府を相手とせず」の政府声明が発表されたのである。
このトラウトマン工作が流産したことは痛恨の極みであるが、支那事変間で最も微妙かつ重要なこの外交交渉は、南京戦と深く関わっていたのである。
(注)「国民政府を相手にせず」の重大な生命を発するに至った1月15日の大本営政府連絡会議における討論について公刊戦史(支那事変陸軍作戦(1))に次のような興味ある記述がある。
13年1月14日午後の閣議中、16時半ごろ、ディルクセン大使が広田外相を来訪し中国側の回答文(英文)を手交した上「中国側は日本の要求する細目が知りたいとのことであるが、在支独大使は、貴大臣から承った日本側の条件の内容は、大体中国側に伝えたものと思う。しかし別に書き物をもって示したのではないから、この際、日本側の細目条件十一項を書面にしたため、中国側に手交することとすれば、今月20日か21日ごろまでには中国側の確答が得られるであろうと思われるが貴見はどうか」と尋ねた。
これに対し外相は「中国側の回答文は、いかにも日本側が中国側に和を請うたような書きぶりをしている。そもそも抗wの希望及び条件等は、進んで中国側から提示するべき筋合いであるのに、日本側の条件内容を大体承知しながら、なお中国側の意見を示さず、しかも日本側の条件につき説明を求めるのは、和平の誠意がなく、遷延策を講じておるものと考える外ない。目下、閣議の開催中なので、閣議に諮り追って回答をする」旨を答えた。
外相は、直ちに閣議の席にもどり意見を求めたところ、「予定のとおり国民政府を相手とせずとの声明をなし、次のステップに入るべきこと」に意見が一致した。
しかし、これを聞いた大本営は反対し連絡会議の開催を要求した。
15日の大本営政府連絡会議 中国側の回答に接し、日本の態度を決定するため、15日9時半から連絡会議が開かれた。まず外相から日支和平交渉の経緯を説明したのち討議に入ったが、中国側の誠意の有無が論議の焦点となった。政府側は、記述の理由から誠意なしと断じ、交渉打ち切りを主張し、陸海統帥部は、いま交渉を打ち切るのは尚早であるとした。
閑院宮参謀総長は、交渉条件細目十一ヶ条が確実につたわっているかどうか疑問であるので、短期間の期限を付して今一度確かめてはどうかと強調した。多田参謀次長はこの回答文をもって脈なしと断定せず、脈あるように図るべきである。わずかの期日を争い、挙国的決意も準備も不十分のまま前途暗澹たる長期戦に移行することが、いかに重大かつ困難であるかを述べ、また、許世英駐日大使を通ずるか、その他の手段をもって中国側の真意を探る方策などを提案して、今直ちに交渉を打ち切ることに反対した。軍令部総長、同次長も、ほぼ同様の意見を述べた。
これに対し、政府側は、交渉を打ち切り、わが態度を明確にすべきだと論じて譲らず、午前の会議を終了した。
午後は15時から再び会議を開いたが、(両総長は出席せず)政府と大本営は完全に対立し、従って軍内においても杉山大臣と多田次長との意見が激しく対立した。陸相は「期限までに諾否の返電がないのは和平の誠意がない証左である、蒋介石を相手とせず屈服するまで作戦を進めるべきである」と主張し、広田外相は「永い外交官生活の経験に照らし、中国側の応酬ぶりは和平解決の誠意がないことはあきらかである。参謀次長は外務大臣を信用しないのか」と述べ、米内海相は「政府は外務大臣を信頼する。統帥部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任である。政府は辞職のほかない」と詰め寄った。
夕刻、参謀次長は参謀本部に帰り、首脳会議を開いて協議し、軍令部とも調整した結果、夜19時半からの連絡会議において「蒋政権否認を本日の会議で決定するのは時期尚早であり、統帥部としては不同意であるが、政府崩壊が内外に及ぼす悪影響を認め、黙過してあえて反対を唱えないということに譲歩した。<編集委員>
4、南京攻略態勢整う
上海派遣軍は、隷下各師団に対し、進撃路と前進目標を示した。第十六師団は丹陽ー句容ー湯水鎮ー南京道を南京に、第九師団は金壇ー天王寺ー淳化鎮ー南京道を南京に向かい追撃した。天谷支隊(第十一師団の歩兵第十旅団を基幹とする)は常州ー丹陽ー鎮江道を鎮江に、第十三師団は一部をもって靖江、主力をもって江陰ー常州ー鎮江に向かい追撃し、揚子江北岸作戦を準備した。
第十軍は、第百十四師団が漂陽ー漂水ー秣陵関道を、第六師団が広徳ー郎渓ー東善橋道を、ともに南京に、第十八師団は広徳ー寧国ー蕪湖ー南京道を南京に向かい追撃した。
また、国崎支隊(歩兵第四十一聯隊基幹)は、広徳ー郎渓ー太平道を前進し、太平付近で揚子江を渡河し、浦口付近に進出して敵の退路を遮断するように部署された。
そして12月4日、松井方面軍司令官は、「南京郊外の既設陣地を奪取し、南京城の攻略を準備する」に決し、両軍の南京攻撃準備線を、おおむね上元門ー小衙ー高橋門ー雨花台ー棉花地の線に統制したのである。上海派遣軍方面においては、第十六師団、第九師団の追撃隊は、それぞれ、12月8日には湯水鎮および淳化鎮付近に進出し、天谷支隊は12月8日、鎮江砲台を占領した。
第十軍方面においては、第百十四師団は、12月7日、秣陵関付近に進出し、第六師団は、12月8日から第百十四師団の左翼に進出して、敵陣地の攻撃に参加した。第十八師団主力は、抵抗する敵を撃破しながら前進し、12月7日、寧国を占領し、国崎支隊は水上機動を利用しつつ、太平に向かい前進をつづけた。
5、海軍及び陸軍航空部隊の活動
11月中旬以来、第三艦隊は中支沿岸水域の航行遮断、占領水域の警戒および敵航空勢力の覆滅に任じ、中国政府の財政に打撃を与え戦力の培養を阻止した。また、揚子江溯航の第十一戦隊(司令官近藤英次郎少将、旗艦「安宅」)は、揚子江の掃海、航路の啓開、わが輸送船の嚮導、敵陸上砲台の制圧などの任務をもって、陸上部隊の進撃に呼応して溯航作戦を進めた。
中支方面に対する海軍航空作戦は、8月上旬以来、上海付近の制空権獲得と地上作戦に協力したが、9月下旬から南京付近を襲撃するほか、広東、漢口を空襲して中・南支の制空権を獲得した。また、揚子江上の支那艦艇に対する作戦においては、10月上旬までにその大部を撃沈または擱座させた。さらに、南京に対する追撃戦においては、主力をあげて敵の退路上の要地および敵部隊を爆撃して、陸上作戦に密接に協力した。
上海派遣軍に配属された第三飛行団は、当初、公大飛行場、王浜飛行場(呉淞西方約四粁)を根拠飛行場として、第一線兵団の攻撃および杭州湾上陸作戦に協力した。南京攻略戦においては、主力をもって第十軍に協力して王浜および竜華飛行場として、敵陣地の偵察、弾薬糧秣の空中輸送、南京飛行場、同城壁の爆撃等を実施して第一線兵団に協力した。
とくに、揚子江上を遡江する敵大部隊、蕪湖付近から南方に後退する敵、あるいは寧国を経て南方に退却する部隊を攻撃して多大な損害を与えた。
6、追撃作戦の実態
中支那方面軍は8月以来、約四ヶ月にわたる昼夜をわかたぬ凄絶な激戦に引き続いて、南京に向かって追撃を開始したが、第一線追撃隊は無統制になだれを打って南京に殺到したのではない。蘇州ー嘉興の線、つづいて無錫ー湖州の線で進撃を統制され、12月1日「南京攻略」決定後においても、一挙に南京に押し寄せるのではなく、南京を去る約四十キロの磨盤山山系西方ー漂水の線で態勢をととのえ、南京攻略を準備したのである。
各部隊は数少ない主要な道路に沿って進撃したが、太湖周辺の江南平野は、「南船北馬」の古諺のように、到るところにクリークがあり全く「クリークとの戦い」であった。このクリークの橋は全部破壊消却され、道路以外はほとんど水田地帯である。一本の進撃路に歩兵、砲兵、輜重隊、自動車隊が蜩集し、我れ先きにと戦陣を争うのであるから、その混雑、渋滞は想像以上のものであった。
都市の攻防と破壊 中国軍はわが進撃路上の重要都市で頑強に抵抗した。太湖以北では、福山、常熟、呉山、江陰、泗安、広徳などでは、城壁に拠る敵と激戦を交えた。わが陸海の航空部隊は爆撃をくりかえし、砲撃を加えたので、抵抗した都市の破壊は甚大であった。
わが中隊(独立軽装甲車第二中隊・畝本はその小隊長であった)は11月25日、激戦の末湖州に入城したが、人ッ子一人居ない荒廃した街となり、市内は掠奪されており、あちこちに硝煙がくすぶっていたので、郊外の草地を選んで車営(車輛の中で寝る)した。また、11月30日正午過ぎ第一線の歩兵に続いて広徳に入城したが、市街はわが砲爆撃によって破壊され、あちこちに火災を発生して家は荒らされており、敵の遺棄屍体が散乱していた。逃げ遅れた敗残兵が右往左往していたが、一般住民は居なかった。ここでも火災を恐れて郊外の池のほとりで露営したが、歩兵部隊は焼失を免れた民家を探し求め宿営した。
湖北平野の常熟ー無錫ー江陰ー常州道を進撃した独立軽装甲車第七中隊の戦記は、激戦の模様を次のように述べている。
11月16日、友軍主力は「常熟」に肉迫した。第十六師団の助川、野田の各部隊は正面より、第十三師団の永津、佐藤、高橋の各部隊は北方から、豪雨の泥の中を行軍し、常熟の背後をおそったのである。中国軍の精鋭は、敗退の浮足をここでくいとめようとして、トーチカによって頑強に抵抗した。敵の砲弾は火炎を吹いて唸り機銃は鳴り、友軍の陣地は砂煙と硝煙にくもり見通しもつかない。わが負傷者は担架に乗せられて、次から次へと後方に送られ傷兵輸送車は後方に走って行く。わが砲兵の射撃と荒鷲の猛爆はくりかえされ、小気味よい程である。わが中隊は豪雨も、砲弾も縦断も押しのけて常熟に迫り、惨憺たる場内でうろたえまわる敗残兵を掃蕩した。…中略…
「無錫」は江陰砲台に連なる南京防衛の生命線である。ベトンのトーチカ、掩蓋陣地、鉄条網などを配置し、中央軍三ヶ師を配備して頑強に抵抗した。督戦隊や、新鋭の砲兵部隊までくり出して、死に物狂いの抵抗をつづけ、敵ながら天晴れの奮戦ぶりであった。
この無錫の戦闘においては、11月26日、歩兵第十九旅団の第一歩兵大隊の戦闘に協力して、本道上より無錫に突入した。無錫の城壁に近接するや、敵は銃眼から一斉に射撃を開始し、手榴弾を投擲してわが前進を阻止した。中隊は直ちに停止して一斉に射撃を開始し、敵を制圧して敵の背後に迫ることができた。
我々の不意の現出と迅速な突進により周章狼狽した敵は、陣地を撤し家屋より逃げ出して本道上を遁走しはじめた。中隊は射撃と突進をくりかえし、敵を蹴散らしながら追撃して無錫西端、梅園付近に進出した。この戦闘で敵の地雷にかかり跳ね飛ばされた小隊長車と後方に連絡せんとした伝令車は運転不能に陥り、敵の肉迫攻撃をうけて炎上し壮烈な戦死をとげたのである。
日本軍の進撃作戦は各方面とも、このような戦闘をくり返したと思うが、敵が抵抗した都市、村落は甚大な被害を受けたのである。しかし、日本軍は一地に長く駐留することはなく、まして掠奪、暴行の如きを行ったことはない。長くても2~3日、殆どが停止することなく、風の如くに通過したのである。巷間、江南平野二百マイルの追撃作戦において、日本軍が暴虐の限りをつくし、中国住民に莫大な戦禍を与えたかのように宣伝されているが、都市の戦禍は彼我の攻防戦によって生じたものである。日本軍のみの故意のものでないことは明らかである。
蘇州の無血占領 敵が城壁によって抵抗した都市・村落は、彼我の戦闘、中国軍退却時の「焼光作戦」(家を焼きはらい敵に利用させないようにする)により破壊焼失したが、無抵抗の城市は無傷のまま占領されたのである。当時の上海派遣軍参謀、大西一氏36期は蘇州の「無血占領」について次のように述懐している。
上海派遣軍が南京に向かい追撃作戦を開始し戦闘司令所を常熟に進めた時、飛行機の通信筒投下により次の状況を知った。
「第九師団は湖沼地帯を突破して蘇州に近づいている。蘇州にはなお相当の住民が残留している模様」。
松井大将は私に対して、”貴官は直ちに蘇州に急行して、蘇州の文化と住民を守れ”と命ぜられた。
夕日が漸く西に傾き、戦場には傷ついた馬が二、三頭たたずんでいるのを見ながら、将校一名、下士官二名を連れて蘇州に急行した。蘇州に着いてみると、第九師団主力はまだ到着していない。場内を一巡すると、古いお寺のような建物があちらこちらにあり、郊外には有名な寒山寺もある。
「文化を守れ」と言われたが、これを焼かないようにするためには、日本軍を城内に入れないことであると考え、
「日本軍の入城を禁ず 上海派遣軍司令官、陸軍大将松井石根」
と大書して各城門に掲示した。日本軍が入城して休憩すれば、焚火をし、出発の際に火の始末が悪いと火事を起こすことが間々あるのでこの措置をとったのである。
しばらくして第九師団司令部が到着したが、同期生の小西(健雄)参謀がいたので、松井大将の意向を話したら”わかった”と言って城内に入らず前進をつづけた。翌日、軍司令部が到着し、場外に司令部を置いた。
私は松井大将に報告したが、大将はニッコリと笑って私の措置を是認されたのである。
このように蘇州においては一軒の民家も焼かれず、治安も良好で逃走していた住民も逐次復帰し、行政も順調に進んだ。蘇州の治安維持会長であった陳則民氏は、その後、南京に成立した威信政府の教育部長に就任し、たびたび特務機関に来られて蘇州の話をされたものである。
支那軍による掠奪 (歩兵第十九旅団司令部通信班長、犬飼総一郎氏談)
南京に向かう追撃作戦で、京都の第十六師団は江南大運河に沿い進撃したが、その追撃隊となった歩兵第十九旅団(歩兵第九聯隊第三大隊、歩兵第二十聯隊を基幹とする)は11月25日、無錫を突破し、29日には常州に進出した。
無錫も常州も掠奪の跡歴然たるものがあり、私はこの時はじめて、支那軍による掠奪の凄まじさを見たのである。
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また、旅団長草場辰巳少将20期は、北支、隆平県城における支那軍の掠奪について、次のように述べている。
第十六師団が転身から子牙河沿いに西南進した作戦末期のことである。児玉支隊が10月13日未明、隆平県城の城壁上に取りつき夜が明けてみると、城内は敗残兵による掠奪で阿鼻叫喚のの街と化していた。
日本軍は、ただ呆ッ気にとられて、しばし茫然としてこの地獄図を城壁から眺めていたのである。
隆平県城内になだれ込んだ敗残兵は、住民から衣・食を奪って便衣化し、明け方になって逃げ出す算段であったのだろう。城壁がすでに日本軍に占領されたのも知らず、掠奪の大狂乱を演じていたのである。
中国における過去の国内戦、各地に割拠する軍閥抗争の歴史をみると、このような掠奪・放火・殺人は常套手段として発生している。支那軍によって、やぶれかぶれの掠奪・破壊が行われたことは明らかである。
便衣の敗残兵の出没 日本軍は主要な道路に沿って、敵の抵抗を排除しながら進撃したから、逃げ遅れた支那軍は道路を離れて周辺の村落に潜入し、便衣に化けて出没し、後方部隊を襲撃した。
奥秋国造氏(独立軽装甲車第二中隊上等兵)は、次のように述べている。
南京に向かう追撃間、設営準備のため、道路から離れたある部落の偵察を命じられた。私たちは一民家の屋内に入ろうとした途端、奥の方に数人の敗残兵がいたらしい。手榴弾を投げて死に物狂いで射撃してきた。
私たちは退避して危うく何を逃れ、中隊段列の増援を得て、この民家を焼き打ちにした。敗残兵は逃げ出す。これを我々は射撃する。屋内にあった銃弾がパンパンと音をたてて近寄れない。この民家は一晩中燃えつづけた。(筆者注・これは湖州の戦闘の時のことである。)
また、わが独立軽装甲車第二中隊が広徳入城の翌日、12月1日、兵站自動車の亀谷部隊が、広徳に進入すべく下泗安附近を夜間前進中、道路阻絶にあい停止して啓開作業中、敗残兵約四百名の襲撃をうけた。わが中隊は二ヶ小隊を派遣して救援に向かったが、敵は退避した後であり、二十四輛の自動車が黒焦げに焼かれ、小隊長以下十名戦死、十数名負傷という惨状を呈していた。
日本軍は主要進撃路以外には、敗敵を深追いしなかったので、広い田園地帯の村落、山中に逃走した敗残兵は、その後便衣で出没し、ゲリラ化して後方部隊を襲撃し、日本軍を悩ませた。
不如意の補給・給養 上海ー南京間約二百里を概ね三十日間で進撃した(追撃発起11月11日前後、南京占領12月13日)。したがって、一日の行程は平均七里であり、当時の軍兵站の常識からみれば、第一線への補給追随が困難な作戦ではなかった。
試みに当時の弾薬・糧秣の携行定量をみてみたい。各兵士は非常用の携行口糧三日分(乾パンと米、固形調味料とカン詰)を持っていたが、この携行口糧は後方から補給杜絶した非常の場合、指揮官の命令によらなければ使用できなかった。
歩兵聯・大隊には大行李(糧食一日分)、小行李(弾薬)があり、師団輜重兵聯隊は通常六ヶ中隊で、歩兵弾薬二ヶ中隊、砲兵弾薬二ヶ中隊、糧秣二ヶ中隊(二日分)に編成されていたので、師団では七日分の糧秣を携行していたことになる。
さらに、第一線師団への常続補給をつづけるために、軍には兵站自動車中隊が配属され、上陸基地には兵站補給諸廠の支廠が設けられ日本本土と補給線をつないでいた。
巷間、「南京事件においては補給・給養が不十分で将兵が鬼獣化して掠奪・暴行の限りをつくした」と称されるので、補給・給養の実情について述べてみたい。
第十方面においては、杭州湾が遠浅のため車輛部隊の揚陸が困難であったので、これらの部隊は上海に回航して同地に上陸し待機した。軍が追撃作戦に移ると、これらの部隊は上海市外北郊を経て松江を渡り、嘉善ー湖州ー広徳・長興へと一本の幹線道路を追及したが、クリーク地帯で道路が少なく、この道路に戦列部隊、さらに後方兵站自動車が蝟集したので、適時、最前線部隊に補給できない状況が続いていた。
私の中隊は常に最先頭の追撃隊に協力しつつ追撃したが、車輛部隊であるので各戦闘車には弾薬一箱と食糧(米)を増加積載していた。戦闘中、夜に入れば、後方の段列が炊飯をして第一線戦闘車まで徒歩で補給してくれるので、このような状態を繰り返して進撃した。
ただ困ったことは、調味品の醤油、塩の欠乏とガソリンの補給であった。幸いにも泗安(広徳東郊の飛行場)でドイツ製ガソリン多量にろ獲したので、このガソリンにより進撃をつづけることができた。
また、軍の作戦制令線である無錫ー湖州の線、丹陽ー漂陽ー広徳の線で、二、三日駐留したので、この間に軍兵站部隊から補給・給養をうけ、戦力を回復することができた。
第十六師団方面 11月13日、白茆口に上陸した第十六師団の、12月1日侍従武官に対する状況報告は、追撃作戦の実態とくに補給・給養の状況をうかがうことができるので、その概要を転記する。
作戦経過ノ概要
第十六師団ハ数船隊トナリ11月12日呉淞沖ニ達シ、13日払暁、白茆口附近ニ上陸シ、一部ヲ以テ白茆口附近ヲ占領シ、主力ヲ以テ支塘鎮ニ向ヒ前進スベキ軍命令ヲ受領ス。
師団ハ重藤支隊ニ引続キ13日、第一船隊タル歩兵第三十旅団(第三十八聯隊欠)ヲ基幹トセルモノヲ以テ佐々木支隊トシ、揚子江岸ニ上陸シテ、速ヤカニ支塘鎮ー常熟道ニ進出シ敵ノ退路ヲ遮断セシム。佐々木支隊ハ、退却援護ニ任ズル四、五千ノ敵ヲ撃破シ、夜間追撃ヲ続行シテ15日常熟東方約四粁メートル附近ニ進出シ、「トーチカ」ヲ有スル既設陣地ニ拠ル敵ト相対ス。
上陸地点ヨリ戦場ニ至ル間、車輛ヲ通ズル道路ナク、加フルニ連日ノ降雨ノタメ泥濘ノ悪路ト化シ、部隊ノ進出意ノ如クナラズ。コノ頃、師団砲兵全ク参加ノ見込ナク第十一師団及ビ軍砲兵ノ協力ヲ得テ本攻撃ヲ実行セリ。(中略)
19日夜半、敵ノ退却ニ尾シテ、第一線各隊ハ夜間追撃ヲ敢行シ、当面ノ敵ヲ駆逐シテ、22日夕、東亭鎮(無錫東方)ニ進出ス、当時師団ハ歩兵部隊ハ之ヲ集結シ得タルモ砲兵ハ僅カニ四門到着シタルニ過ギス、後方補充機関ハ未ダ上陸ヲ完了セズ。(中略)
東亭鎮附近ノ「トーチカ」ヲ有スル既設陣地ヲ昼夜兼行デ攻撃シ、26日午後二時三十分、完全ニ無錫ヲ占領セリ。師団ハ直ニ草場少将ノ指揮スル歩兵三大隊、軽戦車隊、野砲兵一大隊トシ、京滬鉄道ニ沿フ地区ヲ常州ニ向ヒ追撃セシム。
追撃隊ハ各方面ヨリ退却シ無錫市内ニ充満セル敵ヲ掃蕩シ、或ハ潰走中ノ敵ニ多大ノ損害ヲ与ヘツツ追撃シ、続イテ丹陽ニ向ヒ追撃中、師団主力ハ11月30日常州ニ進入セリ。
師団ノ大部ハ既ニ集結シ得タルモ、騎兵第二十聯隊、野砲兵第二十二聯隊ノ三中隊、大隊段列ノ主力及ビ聯隊段列、輜重兵第十六聯隊、野戦病院ハ尚船上ニ在リ、又各隊大行李ノ主力ハ、或ハ船上、或ハ揚陸地ニ在リテ未ダ集結ノ見込立タズ。
経 理
師団上陸以降ノ給養ハ、主トシテ現地物資ニ依リ、調味品及ビ副食等ノ一部ハ追送ヲ仰ギタルモ、幸ニ江蘇省特産ノ米ヲ各地ニテ得ラルルタメ、比較的良好ナル給養ヲ実施セリ。
師団ノ大行李及ヒ輜重等隊属ノ補給機関ハ未ダ揚陸途中ニアルヲ以テ、軍隊直接ノ補給ニハ主トシテ地方小舟ヲ徴用シテ、「クリーク」往来ニヨリ、概ネ大行李、輜重ノ代用ヲツトメツツアリ。
馬糧ノ追送ハ容積ノ関係上頗ル困難トシツツモ、現地ニオケル刈取ノ稲ヲ利用シ、又小麦等ヲ加ヘ殆ンド内地ニ見ル給飼ヲ実施シアルモ、今日迄ニオイテ、栄養上ニハ支障ナキモノト認メアリ。
被服ニ関シテハ、鹵獲セル靴下、綿入、朋衣等ヲ支給シ、概ネ給養上遺憾ナカラシメアリ。
衛 生
衛生状態ハ概シテ良好ニシテ、将兵ノ健康度ハ逐次気候風土ニ慣馴シ、増強シツツアルヲ認ム、コノ地上陸以来ノ戦死総計一九二(内将校一四)、戦傷五六九(内将校二三)、平病二〇〇ニシテ、疾病者ハ迅速ニ衛生機関ニ収容セシメ、初療ノ普及ニ遺憾ナキヲ期シアリ。(以下略)
第十六師団に限らず、上陸後引続いて追撃作戦に移った当初は、各師団の追撃隊は、補給・給養が意の如くならず、現地物資によったのであるが、南京攻略当時(12月10日以後)は後方兵站も漸く追随していた。
したがって、将兵が飢えのあまり掠奪を行うような状態にはなかったのである。
<次号へ続く>